『宮本常一のまなざしを追って~櫃島~4.15』
民俗学者宮本常一氏の足跡・まなざしを追う活動は先月の旧福栄村に続いて、今回いろいろの状況から櫃島に行くことになりました。

宮本氏は1961年、二年目の見島総合学術調査の前に萩沖の旧六島を巡っておられます。
現在「萩大島」以外住まいとしては無人となっています。
その島へ渡るには、通い農耕される市内のYさんの船で行くしか方法はなく、
日程もご無理言って実現した今回の櫃島、そのご夫妻の昔の情報などを交えて大変有意義なフィールドワークとなりました。
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初めて漁船(瀬渡し船)での島行きに船酔いの不安がありましたが、天候、波の状況まずまず、
帰りは多少うねりも出てきたもの全員大丈夫の乗船経験でした。

港は昔の丸石を積み上げた防波堤からコンクリート化し、陸揚げの昔から船が横付けされるように岸壁が大きく変わっていました。
それでも防波堤の間からの大波が押し寄せ堤防や陸上の道まで壊されたということでした。
台上までの高さ90m近く、その間を車が走れるように4m幅のジグザグの道が整備されていた。
(宮本著『私の日本地図・萩付近』では”電光形”の道と表現されていた)
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島の中の多くは廃屋になり、建物は次第に崩れ落ちていました。その中で未だ建屋に立ち寄ることができた所では
「時間が止まったままの状態」と感じる程、そこには私たちの生活では見ることがない多くの生活道具があり、
島特有の工夫した道具類も多々です。島の人たちがそこに住まいされていた時にはまるで気が付かない家の佇まい、
生活習慣・様式・用具・・佇まいがある時、時間が止まったようにさえ感じる状況でした。
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海上から上る道、耕作されない畑地は遠慮なく荒廃を早め、現在Yさんが一人畑地をなすことができているが、
「人が草や道の周りの木をそのままにしていたら一年として住まい出来なくなる」とも言われた言葉に裏付けられていた。
そして、その荒れ様の違いをまざまざと見てそのご苦労を深く感じたし、そこに住む人たちが作り上げた自然美であったかもしれない。
台上は想像以上の広さと、先人たちが農耕地として切り開らかれたかと思えば感慨一入。
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宮本氏の調査時には住民がそこに暮らす血の通った生活感を見聞され、その現状を様々な角度で記録されましたが、
今その血は流れていません。この現状の中に立ってどう表現されるだろうかと聞いてみたくなりました。
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何時までもそこに生まれて生活を続けたい、続けようと思いながら苦渋の選択をして、
あるいは病院に入ったまま帰ることが出来なかった人たちばかりと思う中、今回たった一日の何時間で勝手なことを言うようですが
「島全体がたから島」、それこそ自然系を含め島全体が屋根のない博物館と思いました。
この状態がどうにか残せないものか、多くの人達に見て・接して貰うことができないだろうか。
その歴史、環境、含めてまるごと博物館にしたいと思った程の大きく感動した一日でした。
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by npomachihaku | 2013-05-03 16:34 | 学芸サポート・古写真班
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