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宮本常一氏の「まなざしを追って」 (阿武川ダム水没地域を訪ね) 湖底に沈む村
阿武川ダムの建設により住み慣れた土地を離れざるを得なくなった人たちの”生活のあかし”をほんの少しでも自分たちの目でも
確認してみたいと、水没地区付近を訪ねてみました。

今回普通の通行路とは別ルートで山奥の旧福栄村の佐々連地区を目指しましたが、この付替道路を走る車は殆どありません。
以前訪問した時には猿が方々で群れをなしていたのに、今回は皆無でそれがかえって不気味に感じられました。
佐々連地区は藩政期から紙漉きを代表的な生業にしていた所で、その証しであった清流もそのまま流れていました。
ダムの貯水量・水位はその時々によって変化し、完全に水に覆われている時も多々ありました。
水位が下がることで、橋の場所が想像でき、棚田が現れ、住居建物の基礎部分や川へ通じた石階段等々、残された記録写真と
現在とを重ね合わせた想いです。

これからも写真展を含めて活動は展開していきます。

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by npomachihaku | 2010-09-24 09:41 | 学芸サポート・古写真班
宮本常一氏の「まなざしを追って」  萩大島
民俗学者宮本常一さんの足跡を訪ねその「まなざしを追う」活動として大島に先日行ってきました。

島の渡船場について真っ直ぐに延びる坂道。
それは学校に、診療所に、郵便局に、そして台上の畑に行くのにはなくてはならない道です。
訪問した時には子供は学校です。
おばあさんが坂の途中のあちこちに腰を下ろしています。
鳥の巣を背負って台上の畑を行き来している姿は腰が90度に曲がっています。
そんな中、軽四トラックや多くのバイクが坂道を走っていました。
心なしか日頃耳にしている響きよりも大きく感じられます。
人も車もこの坂のせいで、膝や腰に、またエンジンやブレーキに負担がかかり、いずれはここかしこに支障が発生しているようです。

ところでこの道路の半分が台上からの水を流す水路になっていたとは?
 暗渠になっているのでわかりませんでしたが、宮本さんの写真ではその記録も残っていました。

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その島内の道路が歴史的に改善された様子が古い道路と記念碑とともに見て取れました。
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台上ではタバコ葉の取り入れが済んで畑が整えられていました。
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島の東方の赤穂瀬地区では稲刈りがほぼ終わって、稲がこんな形で乾かされていました。
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宮本さんが約50年前に訪れた大島はその環境、生活様式の変化を感じますが、何よりも写真を通して対応した人達の
温かさはそのままであったと感じましたし、興味深く見ていただいたことで、いつか展示会など検討していきたいと思いつつ
島を後にしました。  (K)
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by npomachihaku | 2010-09-15 10:06 | 学芸サポート・古写真班
『宮本常一写真講座』開催に向けて <学芸サポート・古写真班>
民俗学者宮本常一氏の出身地・周防大島で開催の「第4回宮本常一写真講座」のパンフレットがこの程送られてきました。

講座の中で「宮本常一の写真に見る昭和の生活誌」のパネルディスカッションには、当班が取り組んできた
「宮本常一のまなざしを追って」の活動の体験発表で討議参加を致します。
宮本さんの残された遺作を活用し、どう活かしていくかなど一緒に考えていきたいと思います。

開催日時 :9月25日(土) 14:00~17:00
会 場  :周防大島東和総合センター 大ホール
※入場無料
 

(パンフレットの紹介)

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by npomachihaku | 2010-09-06 10:40 | 学芸サポート・古写真班
『一枚の古写真』2010年8月の報告と9月の課題 <学芸サポート・古写真班>
今回も前月の報告に併せ新しい課題を挙げておりますのでご一緒に考えて見ていただければと思います。
 
(2010年8月の課題報告)

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何処? ・市内椿東中小畑 
何が? ・恵美須ヶ鼻造船所跡 
萩の近代化産業遺産の構成要素の一つの『恵美須ヶ鼻造船所跡』でした。
海岸線が随分埋め立てられています。後方の恵美須神社の鳥居前まで磯だったと近所の方の話でした。

[萩博物館発行パンフレットより]
西洋軍艦の建造に先駆的な役割を果たした『恵美須ヶ鼻造船所』
嘉永6年(1853)、幕府は各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、のちに萩藩に対しても大船の建造を要請しました。
安政3年(1856)、萩藩は洋式造船技術と運転技術習得のため、幕府が西洋式帆船の君沢型(スクーナー船)を製造した伊豆戸田村に
船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣します。尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった高崎伝蔵らとともに萩に帰り、近海を視察、
小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設することを決定しました。同年12月には萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」(全長25m、排水量47t、
スクーナー船)が、また万延元年(1860)には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」(全長約43m)が進水します。丙辰丸建造には、大板山たたらの
鉄が使用されたことが確認されています。現在も、当時の規模の大きな防波堤が残っています。

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by npomachihaku | 2010-09-04 17:27 | 学芸サポート・古写真班