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NHK『視点・論点』に西山教授が出演!
九州大学西山徳明教授が、
NHKの『視点・論点』に出演することになりましたので、お知らせします。

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日 時: 3月27日(月) 22:50~23:00
チャンネル: NHK教育
テーマ: 「文化遺産と観光の接点」
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萩市、萩まちじゅう博物館も
西山教授の研究事例の1つとして紹介される予定です。
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by NPOmachihaku | 2006-03-24 13:46
《藍染めを体験しました》
3月14日 萩博物館体験学習室にて藍染め体験が行われました。
清水学芸員ご指導の下、4名が参加しました。
みんな初めてなので、とても楽しみです。d0046290_14381055.jpg

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まずは、藍汁の準備からです。
ポリ容器に入った以前建てて寝かせておいた藍汁を5人掛かりで運びました。d0046290_14395967.jpgさあ開始です!
まず、布はぬるま湯で洗います。
糊などが付いていると染まり難いそうです。
次に布を藍汁に3分位浸します。その時泡がたたない様に注意します。d0046290_14424777.jpg
最初 藍汁の中の布が茶色になってて失敗かな?と心配でした。軽く絞って空気にさらすと少しずつ色が変わってきました。これを3回繰り返します。
最後に流水で洗い綺麗な藍色が出てきた時はとても感動でした!!

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布を糸で縛って染めるとこんなに綺麗な模様が浮かびました。これを絞り染めといいます。
ほかにも、板染め・ローケツ染め・型染め・筒描きなど、染めの技法があるとのことなので、次回もいろいろと挑戦してみたいと思います。
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萩は、阿武川三角州の上に形成された城下町です。
三角州内には、江戸時代中頃に築かれた人工の溝川「藍場川」があります。
江戸時代には、その溝川の傍らに「藍玉座(藍場)」があり、藍が生産されていました。
藍は「萩の色」のひとつです。
藍の原料となるタデアイの栽培にも取り組んでみたいものです。
また、次回開催が3月27日に決まったのでとても楽しみにしています。
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by NPOmachihaku | 2006-03-20 15:14 | NPO
純白ナマコ発見!!
3月7日 萩市小畑(萩マリーナ周辺)で、突然変異により純白になったナマコ(マナマコ・体長15㎝)が発見されました。採集された佐藤氏によると、ナマコ獲りを何年もされて初めてのことだそうです。
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萩博物館では、この白ナマコと共に譲り受けました赤紫色と黒色のナマコ3種を「萩博いきもの研究室(無料ゾーン)」にて飼育展示しております。
早速“愛称”もつけました。白ナマコ「ましゅまろ」、黒ナマコ「ちょこ」、赤ナマコ「つばき」です。
大変珍しい純白ナマコと仲間達です。ぜひこの機会に萩博物館にてご覧下さい。お待ちしております。
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by NPOmachihaku | 2006-03-14 09:24 | NPO
市民講座 『松陰門下生シリーズ』 第3回 (2月11日)
 市民講座 『松陰門下生シリーズ  高杉晋作(第3回)』

 研修部主宰の市民講座『高杉晋作』の第3回(最終回)の講義が、一坂太郎特別学芸委員を講師として、2月11日(土)10時より博物館研修室において開かれました。
 最終回は、晋作が文久元年(1861)に世子定広の小姓役を命ぜられて初出仕してから、6年後の慶応元年(1867)に満27歳と8ヶ月の短い生涯を閉じるまでを講義していただきました。この僅か6年という歳月は、日本にとってまさに激動の時代もと言うべき時期でしたが、晋作にとっても時代の奔流に身を投じざるをえない状況に追い込まれた時期でした。以下、晋作の足跡を年代順に追ってみます。

 『文久2年(1862) 幕吏随行員として上海に渡航。英国の植民地となっていた上海の実情をつぶさに見て危機感を募らせる。また、「陳汝欽」という衛兵との交流にも刺激を受ける。帰朝後、独断で蒸気船を購入するという行動からもその危機感がうかがえる。その後、村塾生らと品川御殿山に建設中の英国公使館を焼打ちする。
 翌年、幕府や列強に対する藩の無策に失望して、10年間の暇を願い出、松本村に隠棲。(この頃より「東行」の号を用いる)。しかし、藩内外の情勢は、晋作の隠棲を許すような状況にはなく、文久3年(1863)第一次馬関攘夷戦戦争の講和談判のため、正使として馬関に遣わされる。6月、藩の諮問に応えて奇兵隊を結成、その総督を命ぜられるも3ヵ月後に辞職。
 そして、元治元年(1864)になると、池田屋の変、禁門の変、第一次征長令発令、四ヶ国連合艦隊の馬関来襲と、藩にとっては未曾有の重大事件が相次ぎ、長州はまさに存亡の危機に瀕した。しかし、この間、晋作は、禁門の変の直前に来島又兵衛の京都進発の阻止に赴いた際、藩に無断で上京した罪で下獄していた。もし、禁門の変に晋作が出陣していれば、久坂玄瑞らと共にここで討ち死にしていたかも知れない。だが、歴史はまだ晋作を必要としていた。
 慶応元年(1865)亡命先の九州から帰還するや、下関で決起して萩藩会所を襲撃。幕府への恭順を是とする俗論派を絵堂に撃破し、藩是を「武備恭順」に転換せしめる。
 翌2年(1866)6月、幕府は第二次征長令を発して長州に迫り、四境戦争勃発。9月幕府は征長軍に撤収令を発する。慶応3年4月13日、かねてより患っていた結核が悪化し、波乱に満ちた29年の生涯を閉じる。幕府崩壊に先立つこと、僅かに9ヶ月前のことであった。』

 馬関戦争の講和談判後、攘夷に固執する藩内の激派から命を狙われた晋作は、四国や九州を逃げ回っていましたが、藩の俗論派が幕府への恭順を藩是としたことを知るや、俗論派打倒の決起を決意したのです。しかし、長州に帰国して同志を募ったものの、力士隊を率いていた伊藤俊輔を除き、奇兵隊をはじめ諸隊はこれに同調しませんでした。


 当時の志ある青年の多くが、情報や知識としてアヘン戦争や列強の植民地支配についてよく知っていましたが、晋作は上海で実際に植民地支配の実情を見ていました。この「実際に見た」ということこそが、西洋列強の侵略に対する危機感を、誰よりも強く募らせることになったと一坂講師は強調されています。
 高杉晋作という一人の青年が、幾多の優れた人物に巡りあい、また当時にあっては、多くの志士には望むべくもない上海渡航という貴重な体験を経て、激動の時代を一条の光芒のように横切っていった経緯には、「教養小説」を読むような面白さがあります。高杉晋作という青年が、今に至っても我々に爽やかな印象を残している理由が、改めて理解できたような気がします。
 ともすると、晋作を描いたドラマや小説では、破天荒な言動と奇矯な性格が強調されているようで、画面に出てくるたびに、だらしの無い格好で酒ばかり呑んでいる蓬髪の晋作を映画で見たことがあります。一坂講師は、実際の晋作は萩藩の大組士としての、折り目正しい武士であったと言っておられれます。
 計3回、6時間に及ぶ一坂講師の講義によって、我々は晋作という人物を通じて、幕末・維新史を学ぶことの面白さを十分に知ることができました。

 なお、研修部では、今後もこうした講座を計画しています。講座の内容につきましては、また改めてご案内する予定です。(以上)
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by NPOmachihaku | 2006-03-03 11:22 | 研修班